2020年08月01日

1945年(昭和20年)8月1日夜半、長岡市はB29大空襲を受けました。私は8歳、魚沼市小出町に疎開してました。75年前の今夜のことです。

当時は国民みんなが耐え忍んでいました。父親は軍人で出征し、母親は5人の子育てで困り果て、8歳で手のかからなくなった私は、母方の祖母の家に一人預けられていました。8月1日の夜、「大変!北の空が真っ赤だよ!」とたたき起こされ、2階の屋根の上から、そこだけが昼のように明るかったのが、長岡空襲の思い出です。8月6日、9日の原爆投下は知る由もなく、15日、昭和天皇の「堪え難きを耐え、忍び難きを忍んで…。」の生のお声を木箱のラジオで聞きました。太陽が白く照る、暑い暑い真昼でした。それから10年後、新潟大学に入学。教育学部長岡分校の女子寮(和光寮)から校舎に通う道が、当時、i空襲で焼け爛れた真っ赤な死体で埋め尽くされたという「柿川」のほとりでした。
みんな遠い過去になりました…。でも、幼くして命を閉じた弟妹、苦労重ねた父母、優しくも厳しくしつけた祖母、私をつねってはしゃいだ、若くして逝ったいとこ達の鎮魂が、私の残された務め。それももう、そんなに長くはないでしょうけど…。
posted by 教育と環境の「爽」企画室 代表 at 10:40| 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする